本日は自宅にて作業を致します。<m(__)m>
コロナ真っ只中の頃、私は「自宅では仕事できない人間なので・・・」と堂々と言い放ち、日々会社に通勤していました。つまり、テレワーク(在宅勤務)は一切やらなかったのです。
ところが今年の3月、物置状態だった部屋を片付けて書斎として復活させてからというもの、
「私、家でも仕事できるんです!」
と、すっかり人が変わったように在宅派?になりました。
・・・まあ本音を言えば、やっぱり会社に出社するという方が気持ちの切り替えが出来て良いのですけどね(笑)
そんなわけで本日は、自宅で作業しております。そして、現在進行中のあれこれを一旦リセットし、仕切り直して再スタート。私のお友達、「慈英新(Gemini)」君と「茶藤児比輝(ChatGPT)」君と3人で、爆速で進めてまいります!

一旦リセットしても「よっしゃーっ!よっしゃーっ!」と前向きに進めるマインドは、若かりし頃、ソフトウェア開発と並行して漫画の原作者をやっていた時代に身につけたものです。
中でも特に過酷だったのが、ある70ページ作品の執筆でした。

漫画界の巨匠・井上紀良氏との出会いは、少年画報社のS編集長を通じてでした。S氏は、井上先生が若き日に漫画家を志し、滋賀県から高知に渡って、巨匠・青柳裕介先生のアシスタントとなるきっかけを作った方でもあります。
私もその頃には、集英社「週刊少年ジャンプ」や小学館「週刊少年サンデー」に作品を掲載した経験があり、少年画報社ともご縁をいただいていました。そんなある日、S氏から「井上先生と組んで、70ページの読み切りをやってほしい」と依頼が。
週刊漫画なら通常19ページ。それまで私の最長は月刊誌の50ページ。それを超えるボリュームに一抹の不安を抱えつつも、快諾しました。・・・はい、その快諾が地獄の始まりでした。
プロットを何度書いても、「ボツ」「ボツ」「ボツ」・・・
「もうアイデア出ません!」と音を上げても許されず、
あげくには、超有名原作者の名前を出されて、
「あいつは能力がないから原稿料だけ渡して縁を切ってやった」などと。
「ええ・・・私も縁を切っていただきたいんですが・・・」と、心の中で叫びつつ、それでも書き直し、書き直し・・・。
ある日、S氏が言いました。
「平田君は凄いよね。原稿ボツにすると、前回と全く違うシチュエーションで書き直してくるもん。ネタの宝庫だね。あはは・・・」
そしてついに、「これでいこうか!」とプロットにOKが。
・・・でも、そこからが本当の地獄でした。
「漫画家が君の原稿を待ってるんだから、締切は絶対に守ってよ。井上先生も暇な作家じゃないんだからね!」(そんなこと分かってます!)
そう釘を刺されつつも、なかなか本原稿にOKが出ず、ついには逗子にあるS氏宅の屋根裏部屋に缶詰にされました。ちなみにその屋根裏部屋は、S編集長の奥様(こちらも漫画家)の作業スペースでした。(通称:逗子の缶詰工場、ボソッ)
「原稿書き終わるまで帰さないからね!」
・・・たまたまソフトウェアの本業が休みの日でよかった。でなければ、出社しない私に会社から捜索願が出されていたかもしれません(笑)当時は携帯とかもない時代ですからね・・・。
そうして、15ページOK・・・30ページOK・・・と、刻んで刻んで、何とか70ページを書き上げたのでした。笑顔のS編集長が、「平田君、次の作品行こうか・・」と笑顔で言って頂きましたが、その後の絡みは記憶にございません・・ね。
この経験のおかげで、アイデアがいくらボツになっても、「きっと次がある」と信じて前に進む力が身につきました。今でも、「アイデアは出るものだ、枯れる事はない」と思って、作業に取り組んでいます。
さて、一旦リセットされた頭の中をどう再構築していくか?
愉しみながら、また進めてまいりましょう!基本は愉しむ!ですからね。
——なぜ私が漫画原作者の道に入ったのか?
それはまた、次の機会に。