バブル崩壊直前の事務所拡張、、これもハルの歴史。
『バブルが崩壊した』
- 1989年5月以降: 日本銀行が、過熱する景気を抑えるために段階的に金利の引き上げ(公定歩合の引き上げ)を開始しました。これが金融引き締めの始まりです。
- 1989年12月29日: 日経平均株価が史上最高値の38,915円87銭を記録しました。後から見れば、これが株価のピークであり、この後、株価は急落に転じます。
- 1990年3月: 大蔵省(当時)が、金融機関に対して不動産関連融資の「総量規制」を通達しました。これは、銀行が不動産向けにお金を貸すことを実質的に制限するもので、地価の暴落に大きな影響を与えました。
これらの出来事により、株価や地価は下落に転じ、1991年に入ると本格的なバブル崩壊が表面化していきました。
ハル・エンジニアリング株式会社は、現在本社のある三石ビルの7Fの契約を1991年6月に行い、翌7月から使用を開始した。つまり2Fのフロアと2フロア体制である。

事務所の突貫工事中風景。2フロアの総面積は180坪くらいだったと思う。横浜駅から徒歩7,8分の場所にこれほど広いオフィスを構えるなんて凄い事だと思う。

社長室から横浜駅方面の眺め、また、ロビー、さらに総務室を見ることが出来る。とにかく目の前を遮る建物がほぼ無かったので眺めは最高だった。

7Fの設計室での一コマ。女性社員が座ってる場所、実は私・平田の席なんです(笑)。で、撮影のタイミングでなぜか鬼の水野が「おい、平田君、ちょいと撮影の邪魔!」なんて言ったとか言わないとか。まあ、その場にいた人だけが知ってる話ってことで。
そんな微笑ましい(?)シーンの裏で、なんと日本経済がガラガラと音を立てて崩れ落ちていた・・。バブル崩壊、まさにその瞬間でした。ハル・エンジニアリングも例外ではなく、影響をモロに受けてしまったんです。
1991年はまだよかった。でも翌年の1992年には雲行きが怪しくなり、せっかくたくさんの新人を採用できたその年の後半、逆に多くの社員が職を失うという皮肉な展開に。そして、私のチームが唯一使っていたこの7Fのオフィスも、泣く泣く手放すことに・・・。
タイミングが悪いにもほどがある。オフィスは広げた、社員は増えた、「さあこれからだ!」という時のまさかの急ブレーキ。でも、こういう出来事も含めて、ハルのリアルな歴史なんです。
1992年前後、世の中で流行(?)したのが「一時帰休」。
これは会社の業績が悪化したとき、社員を解雇せずに一時的に休ませて、給料の6~7割は保証するって制度。まあ、バブル崩壊の影響ですね。
で、新婚ホヤホヤだった私も例外ではなく、担当してたプロジェクトが消滅し、あっさり一時帰休に突入。つまり、出社しなくてOK。やる仕事もないわけです。
でも、そこで落ち込まないのが私のポジティブ思考。
「やった!自由だ!」とばかりに、ほぼ毎日スポーツジム通い。
インストラクターたちに「ご夫婦で毎朝来てますけど、お仕事は?」と聞かれた時は「夜勤、夜勤!」と適当にかわして、せっせと筋トレ。
ついでに日焼けマシーンで全身こんがり焼きまくり。アウトドア好きの私たちは富士山方面へBBQに出かけたり、とにかく世間の暗いムードとは距離を置いて、思いっきり楽しんでました。
そんな“自由生活”も3ヶ月で終了。会社から呼び出されて仕事復帰を言い渡されたのですが、真っ黒に焼けた肌と鍛え上げた身体を見て、周囲からは「平田さん、ワイハ(ハワイ)行ってたでしょ?」なんて陰口も(笑)。
しかし復帰初日、久々にパソコンの前に座ってキーボードを打ち始めた瞬間、違和感が・・・。
「うっ・・気持ち悪い・・」
そう、そこは開放的なジムでも富士の自然でもなく、空気が淀んだオフィス。目の前にあるのは、冷たい機械=パソコン。
「あ、オレ終わったかも・・もうこの世界じゃやってけない・・」と心の声。
とはいえ、そんなこと言いながらも会社はなんとか立ち直り始め、私自身も何だかんだでハルに残り続けて今に至ります。あの頃、多くの仲間たちが会社を去っていく中、「平田はどうする?」と聞かれた時、「俺は最後まで残るよ」と答えたのを、今でも覚えてます。
あれから色々あったけど、今や銀行さんにお金を借りなくてもやっていける会社になりました。(お金借りなくてもやっていける会社なんです!し・つ・こ・い・・しつこいんじゃ!)
すべてが、ハル・エンジニアリングの歴史です。