水野通信は不定期です。 業務範囲外のことで、個人として感じ、考えたことのうち、知らせたいと思うことがあったときに書いています。
1996年12月から2003年5月まで、
創業者・水野が給与明細に不定期で書き残していた
「水野通信」が13回分残っていました。
内容には一切手を加えず、
当時のまま掲載します。
■ まえおき
水野通信は不定期です。
業務範囲外のことで、個人として感じ、考えたことのうち、知らせたいと思うことがあったときに書いています。
《Tの字の理論》
”事務系の人間は特定の専門分野を持たず、その代わり何事にも幅広く対応する。
一方技術者は、専門的な深い知識を持つがそれに執着する余り、とかく専門分野外の事象に疎い傾向がある。 より優れた社会人であるためには、事務屋は 一つでも専門的な深い知識を蓄えること、技術屋は少しでも 幅広く柔軟な対応力を養うことが大切である”
これは、人は誰も、横方向の広がり(━)と、縦方向の深さ(┃)の両方(Tの字)を身に付けなさい、ということで あり、HaL[=高さと長さ]の社名のベースになった考え方です。
HaLのメンバー諸君が、様々なことについて「考える習慣」を身に付けて豊かに成長することを望むため、敢えて 平均的、通俗的な考えとは違うことを書いています。
こういう考え方もあるよ、という事例の開示であり、君ならどう考える?という、思考・考察の喚起でもあります。
「これと同じ考え方をしなさい」などという押しつけでは決してありません。教祖ではないのですから。
そんなことは判っている、というメンバーも多いことでしょうが、万一誤解があってはならないとの思いから、 念のため書いておきます。
いつでも一人一人が考え、それを互いに交換し合う活き活きとしたチーム、また、自分とは違う習慣や考え方の 存在を許容し合えるしなやかさを備えた、高いレベルの民主主義集団であり続けることを願っています。
■ おじゃましますの心 「1996年12月」
今年の9月、オーストラリアの国会議員が議会で「アジア系移民の受け入れ停止」 などを主張した。
これに対して賛同者が声をそろえたり、逆に当然のこととして、人種差別であるとの批判が出て話題になっている。
首相は「自分は一貫して人種差別に反対である」と表明したものの、その議員をたしなめることはせず、また以前本人が差別的な発言をしたことがあるとも伝えら れた。久し振りの保守政権であることもあって、成り行きが注目されている。
オーストラリアは永く続いた白豪主義を66年に破棄した。その後はマルチカルチュ ラリズム=多文化複合社会という看板を掲げ、他国からの移住に好意的だった。
元々は英国からの移民がベースだが、本国に存在した宗派による区別を意識的に排除してメイトシップ・平等主義の国を作った。
アジアを含む多くの国から移民を受け入れて来た。穏やかで温かい、大らかな国だ。
そこへ大っぴらに「アジア人は嫌い」みたいな発言である。これが高じるとあちこち に不都合が起きる。差別反対の声が上がるのはもっともに思える。
差別することが好きだとか、良いことだなどと思っている人はいないだろう。
それが自然である。
けれども、生活態度や習慣の異なる人たちが身近に急に増えるのも困る。
これもまた自然な感覚だ。
子供の頃、ある国では人と会ったときにはベロを出すのが挨拶だ、と聞いて驚いた。
日本でそれをやったら軽蔑の表現だ。もしボクがその国に行って、会う人ごとにベロリとやられたら、あ、馬鹿にされた、と思ってはいけないんだ、
腹を立てたりしたらきっとその国にいられなくなるんだ、と思った。そこに行くことになったとしたら、そのことをよーく頭に叩き込んで、上手なベロの出し方を練習しなくちゃ、と空想した。
日本の中でも習慣は家庭によって微妙に異なる。お風呂はお父さんが一番に入る、女子供が先に入るなどとはとんでもない、という家はまだあるだろう。
そんなこと冗談じゃないわよと、娘やお母さんがさっさと先に入る家もある。
この方が多そうだ。
関東では好きな人の多い納豆も、関西ではあまり食べないのだそうだ。
そちらで育った人が、よその家で納豆を出されたら、臭くってネバネバと気持悪くて食べるどころではない、美味しいはずの他のおかずまで食べる気がしなくなる
かもしれない。もてなす気持から出されたものだが、もし無理やり食べろと言われ続けたとしたら喧嘩になりかねない。
逆に納豆とくさやとキムチが大好きで、そういう匂いが身に付いてしまった人がよその家に行けば、いくら上品に振る舞ったとしても好かれることは難しい。
国が違えばもっと深刻だ。
初来日した外国人が、アパートの下見に行って畳の部屋に土足で入って大家さんに叱られた、という話があった。
本人としては当たり前の行動なのだが、大家さんにしてみれば冗談じゃねぇぞこの野郎、というくらいびっくりして腹が立つ。同じことが三日続けて起これば、根はやさしい大家さんに外国人差別の心が芽生える。
自然なことだ。
日本人はお茶をすすって飲む。ソバもズルズルッと音をたてて食べる。
西欧人にとっては、これがとても嫌なことなのだそうだ。飲食は音をたてない、が基本的なマナー。増して口で、わざとみたいに音をたてるなんて汚らしい、といったところだろうか。
テーブルの真ん中に死にきってはいない魚の頭を置き、パクつく口とギョロ目を見ながらその身を生のまま食べる。
高級活魚料理だ。日本人には好きな人が多いけれども、初めて見た外国人にはとてつもなく野蛮な行為に見えるだろう。
仰天するか、気の弱い女性などは気絶するかもしれない。
ステーキが大好きな国と、牛は神様である国。タコがご馳走である国と悪魔である国。子供の頭を「いい子いい子」と言ってなでる国と、そこは神様が宿るところだから決して触れてはならない国……習慣、文化の違いとはこういうことだ。これらについて違和感や困惑がたび重なれば、差別の心が生じる原因となる。
オーストラリアでは80年代の終わり頃、都市部の住宅を外国人に売ることが禁止された。外国人を厳然と差別したのだ。
その外国人とは日本人のことだ、と言われた。日本人がそれだけ、不動産購入や開発を傍若無人に行い、環境を壊したり価格を吊り上げる結果になっていたからだ。
その国の元々の状態や人々の心にダメージを与える行いをし続けたから、平たく言えば嫌われたのだ。日本人自身が、差別される状況を作ったのだ。
こうしたことに対して、差別はけしからん、と怒るだけでは本当の解決は得られない。
不都合が生じたときには、原因を自分に求め、その認識に基づいて話し合うことが解決への端緒となる。
他人の責任ばかりを追及したのでは、仮に目先の利益をもぎ取ることが出来たとしても根本的な解決とは言えない。
表面的なルールが変わっても、差別せざるを得なかった心は残るからだ。心は、理屈や力ずくで変えることは出来ない。
自然な心を抑えつけ、外観だけを繕って永い年月が過ぎると、人々の心の中に不満と不信が蓄積する。それが集まって大きくなって爆発するのが民族間の争いだろう。
征服、侵略、勢力圏拡大のための戦争はようやく無くなったようだ。残っている戦争はどれも民族か宗教がらみであるように見える。
日本には、よその家庭を訪問したときに「お邪魔します」という挨拶がある。
英語に直訳すると正反対の意味になってしまうが、本当の意味は「出来るだけお邪魔しないようにしますから許可してね」といったところだろう。
差別などとは無縁に、日本の社会に見事に溶け込んでいる外国人がいる。
逆に、外国に溶け込んで生活している日本人もたくさんいる。彼らはおそらく、始めから「お邪魔します」の精神を備えていたのではないだろうか。
人々が大切にしている物事、自然に存在する習慣、作り上げられた文化、その価値を認識して尊重する。その上で同化できる部分は同化する。
出来ないことは理解してもらうための努力をする。
アフリカのマサイ族が子供をしつけるためのキーワードは「尊敬される人間になれ」だそうだ。素晴らしいと思う。
尊敬される、その前にまず好かれる、少なくとも嫌われないことが必要だ。差別されるような振る舞いをするな、と言うのに通じる。
自分を受け入れてもらおうとする思考は、逆に自分とは異なる習慣や文化を許容する心を育てることにもなる。
異質の文化を互いに尊重する心、寛容の心のある空間には、戦争の元になるいさかい、さらにその元になりかねない差別感は生まれない。
■ ことばで民主主義考 「1998年3月」
「考え直しなさい」という言い方がある。
単語の意味だけを単純に考えると、「考えること」を「やり直す」ということだから、「もう一度考えなさい」ということのように思える。これが英作文の問題だったとしたら”Think again”としてしまいそうだ。
だが、そうではない。
「考え直しなさい」というのは「考えを変えなさい」という意味で使われている。この場合の「直す」は「正す、改める」の意味だ。だからこの文の英訳は”Think again”ではなくて”Change your mind”だろう(多分)。
野太い声で「考え直せ!」と言うと、「その間違った考えを変えろ」という強い強制のニュアンスになる。上から下への押し付け、支配の匂いがする。
「言うことを聞く」という文の「言うこと」は”saying”、「聞く」は”listen”だ。だからといってこれを
”Listen my saying”と訳したとしたら、外国人に本当の意味は伝わらない。
「言うことを聞け」と言うのは、ただ「話を耳で聞き取りなさい」と言っているのではなく、「言われた通りにしろ」ということであり、つまり「私に従え」ということだ。これにも従属・強制の雰囲気が漂う。好きではない言葉である。
「逆らうな」となるともっと不愉快な言葉だ。理由を問わず「とにかく従え」ということだ。それを言っている方に誤りや不合理がある場合だってある筈だ。
なのに相手が従わない理由、反対意見の根拠を知ろうとすることなしに、無条件に服従させようとする言い方である。封建主義の言葉だ。
封建主義の反対は民主主義だ。
意見を述べる際は誰もが対等である、という認識が民主主義の根幹である。
日本独特の敬語や謙譲語の使い方を別にすれば、年令も性別も役職も関係ない。
誰もが公平に権利を持ち、責任を負い、義務を果たす。それを自由と言うのだ。
また自分が何でも言えるということは、言われた相手もまったく同様に言い返すことが出来るのだ、ということをしっかりと理解していなくてはいけない。
その上で誰が、誰に対しても、考えを述べる/質問する/答える/反論する/説明する……、それによって事を正しく理解し合い、有意義な合意を見出す。
そうした行動が伸び伸びと自然に行き交っているところに、スムースで機能的な人間集団が維持されるのだ。
「年長者に逆らってはいけない」「先輩に疑問を呈することは失礼だ」などという決め込みは、民主主義の精神に反する危険が大いにある。
安っぽいビジネスドラマでは、「今日の会議ではAさんの意見が通った」とか「僕は常務派なので常務の意見に賛成した」などというせりふがある。ひどいときには「今日の会議はB部長の勝ち」などとなる。
これは大変な間違い、もしくは著しくお粗末だ。会議は勝負を争う場ではない。
会議は、情報を伝達・交換するためのものと、もう一つは複数の人々によって価値のある結論を生み出すためのものである。
優れた結論が得られたとき、その提案者と賛成者は誰か、それに反対した者は誰だったのか、ということに重きを置く考え方は、社会人としてレベルが低い。
重要なのは、その結論が参加者の議論を経て得られた、という事実である。
その結論は、そこに参加した者全員の知恵と力の合計によって生まれたのだ。
みんなの共有財産なのだ。
そういう認識が存在していれば、会議での発言に「勝とう」とか「負けたくない」などというさもしい感覚が伴うことはない。否定されることを恐れて発言しない、という態度も生じない。反対意見でも賛成でも疑問でもストレートにそのまま言う。
例え否定されようとも、参加者たちの思考に刺激を与えてより良い意見を引き出すこともある。
深みのある議論が行われるために率直な発言がどんどん出る、それが良い会議だ。
カナダには、百年来の国民的議論のテーマがあるのだそうだ。ひとたびその話が始まると、賛成派と反対派の間で激しい意見の応酬になるという。
ところが、猛然と意見をぶつけ合っていた二人が昼になったとたん、「一緒にメシを食べよう」と親しげに肩を並べて行ったのを目撃して驚いた、と書かれたものを読んだことがある。
一つの意見に反対することと、その人物に対する敬愛や信頼の情とはまったく分離されている、ということのようだ。
だから、自分とは異なる意見や主張の存在を互いに許容し合うことが出来るのだろう。
日本には、反対意見を言う者はすなわち敵、俺に逆らう不届き者、みたいに感じてしまう体質がある。部分的な意見の一つが、その人の全人格であるかのように思ってしまうのだ。そのため上手な議論が出来にくい。
日本人の議論下手の遠因は、島国、単一民族、協調性重視、そこに醸成された集団至上主義などにある、と、元ジャーナリストで現在は多摩大学学長・聡明なグレゴリー・クラーク氏が言っていた。
だが、この国の伝統的気質であろうと、その原因が何であろうとも、我々は良い方に変わることに躊躇すべきではない。
反対でも賛成でも疑問でも解説でも、正しいものは正しく、誤りは誤りだ。
そして一つの意見は全人格とは決してイコールでは無い。
それらがいつでも率直に語られ、同時に相手の立場や意見の背景を理解しようとする心のある空間に、優れた集団・社会が形成されるのだと思う。
HaLは、誰もが自然に発言し合える人間集団でいよう。
権利と責任、自由と義務とのバランス感覚を、ひとりひとりが血液の中に蓄えているかのような、力強いチームであり続けよう。
そのための役割を、メンバーの全員がそれぞれに担っているのだ、ということを誇りとしよう。
■ 選挙義務 「1998年6月」
選挙権ならぬ”選挙義務”という、あまり知られていない制度について、海外生活の永い杉本良夫先生が紹介
している。実施されているのはオーストラリア、イタリア、ベルギー、ルクセンブルクといった国々で、投票を棄権するとペナルティーを課されるのだそうだ。このためか、オーストラリアでの投票率はいつも97~8%だという。
ごく一般的な人々が、自分たちみんなで自分の国を維持しよう、良くしよう、と真剣に考えている空気が感じられて何かうらやましい。
社会とは、自分たち自身で作り上げるものであり、ごく一部の政治家や役人などの”上層部”から与えられたり押し付けられたりするものではないのだ、という認識が自然に存在しているのだろう。
オーストラリアでは2年前から自由党と国民党の連立による保守政権で、その前の13年間は労働党による革新政権、さらにその前の7年間は保守政権だったとのことだ。実に見事なバランスに見える。世界で最初に労働党が政権を取ったのもこの国だとのこと。
これらの政党の名前を見れば、どういう立場からどういう政策をとろうとするのかの見当がつく。
これに対して最近の日本の政党名には似たものが多くて識別性が低い。
どこがどう違う主張をしているのかが分かりにくいばかりでなく、中には口にするのが恥ずかしくなるような妙ちきりんでセンスのない名前も少なくない。
そういう名前の羅列からは、この国をどうしようとするのか、という政策や理念はまったく伝わらず、代わりに強く匂って来るのは人間同士の単なる権力争いだ。
誰が偉いか、どっちが強いか、どこの子分になるのが得か損か、というようなことだ。民主主義の豊かな香りとは正反対の、カビの生えたような悪臭である。
投票率低下の根本的な原因の一つがそこにあるように思える。
比例代表制という選挙方式は、どの政党がどういう政策をとるのかという知識が選挙民たちの間に浸透している場合に成立する。税制、赤字国債、PKOをどうするのだ、ということについて、政党ごとの考え方がはっきりと認識されていることが前提である。その政策/理念に対して人々は投票するのだ。党派の名前や親分の顔つきに対して票を入れるのではない。
その前提がないままに、形式だけをマネしている。
外国の識者には、バットもルールの知識もないのに野球をやっているフリをしているのと同じくらい滑稽に見えるのではないか。
消費税推進者の論拠は、主に”欧米諸国にならって”である。だが、先進国の中にも消費税の無い国もある。
その代わり当然、その国では所得税がとても高い。
ということは、高齢者の貯金と外国人旅行者や子供の小遣いから税を取ることをせず、働く人の給料から多くの税を取ることによって国を成り立たせていることになる。100%に近い投票率を通じて、つまり「民」が「主」になってそういう確たる選択をしているのだ。
国の財源を集める方法として、老人/子供/外国人から税を取るか否か、この辺りに税制論議についての重大な、かつ誰にも分かりやすい核心がある。
にも拘わらずこの国では「消費税反対」とか「3%に戻そう」と叫んで民衆に媚びを売る人は見かけるけれども、事の核心に触れた本物の議論を見聞きすることがない。
良質の議論の存在しない集団は劣化する他はない。国や政治家がどうあろうとも、我々はそうあってはならない。
■ 心のSOS 「1999年2月」
中学生の息子がいる知人との会話。 息子が仲間と一緒に悪いことをして先生につかまった。
主犯は仲間の方だったのだが、その坊主が「悪いのはこいつです」と息子を指差した。
息子は先生の前でそれを甘んじて受けて謝罪したが、後でそいつを殴った。喧嘩は強いのだ。
殴られた子の親が文句を言って来た。
応対した母親は事情を何も知らないから平謝りする他はなく、息子にも謝らせた。
夜帰宅してそれを聞いた父親は息子を呼び、友達を殴るとは何事だ! と怒鳴りつけたという。
「ワルになってしまうんやないかって、ちょっと心配や」
「うーん、でも、要は息子さんは先生の前では主犯の罪をかぶって仲間をかばってやった、ということなんでしょう?」
「そういうことやけど、かばおうと何だろうと、殴ってしもたらあかんわ」
「あかんけど、かばったところに本人なりの心意気があるじゃないですか」
「そやけど、暴力ふるったら世の中では負けや。それをきっちり教えたん」
「あのね、トータルでは悪くても、良い部分がありますね、と言ってるんだけど」
「ま、そらそうや」
「そこを認めてやらなくちゃ」
「え、認める? 認めようがおまへんがな、悪いんやから」
「それじゃ坊やの立つ瀬がないですよ」
「何でやのん?」
「殴ったことが悪いなんて、言われなくても判ってますよ。この次会ったら『ごめんよ』の一言くらい言う気でいたかもしれない。貴方の息子なんだから。そうでしょう?」
「うん、まぁね」
「仲間をかばおうとしたお前の気持は判るぞ、って、そのところを買ってやらなくちゃ。誰か一人くらい、その気持を汲み取ってくれる人がいなくちゃ」
「うーん」
「それを言われたらタロウ君は嬉しいよ」
「うちの息子はマサカツや」
「うん。マサカツ君は、あ、判ってくれた、という思いで親父の顔を見直す。それで心が伝わるパイプができる。
アプリケーションを乗せるOSがローディングされる、といったところかな」
「はぁー」
「そこでお父さんが言う。だけど殴らへんかったらもっと良かったな、って」
「んー、そんな気になってきた」
「そうでしょう。親が自分の願望とか正義とかを上から偉そうに言うばかりでは心が開かない。伝わるものも伝わらない」
「うん」
「OS入れないで『お前のために言ってやっているんだ』なんてアプリを無理やり押し込もうとしていると、そのうち
『うっせぇな』って言い返されますよ」
「そら、かなわんな」
「それにマサカツ君は、そのことをすべてお父さんに告白したんでしょう?」
「そう、何で殴ったんか言うてみい! って言わしたったんや」
「それも偉いじゃないですか。勇気が要りますよ、空手三段で、こんな丸太ん棒みたいな腕の親父 に、実はこういう訳だった、と打ち明けたんだから」
「そう言や、そうやなぁ」
「そこも汲んでやらなくちゃね。お前、わしによく全部話したな。そこんとこ買うたる。これからもずっとこれで行こうやん、とか何とかさ」
「んー、水野さん、大阪弁どこで習うたん?」
「習ってませんよ、別に。そういうことは言ってないんでしょう?」
「んんん、思いもよらなかってん……。判った。つまり情状酌量やね」
「違うな。情状酌量というのは、裁判官が与える罰を減らすための理由でしょう」
「そうや。どうちごとるねん?」
「マサカツ君の罰は、先生と先方の親から与えられたじゃないですか。もう償いは済んでいる。それがどうあれ、親父が心を汲んでやるんですよ。味方してやれる部分を、どんなに小さな部分でも見つけてやるということかな。本人が自覚している悪い所を繰り返したのでは、傷口に指突っ込んでかき回しているみたいじゃないですか。痛くて口惜しくてどうしようもない」
「はは、きついこと言わはるね。でもそうかもしれんな、確かに。汲んでやる、か。うん……。でも水野さん、どうしてそういう考え方が出来ますのん?何ぞ特別の精神修養でも……」
「そんなものやってません。ま、僕も三人の娘を育てからね」
「へぇー、三人も。それでみんなよっぽどのワルやったんやね、きっと」
「冗談じゃない。何てこと言うんですか」
■ お寺にて 「1999年5月」
連休に、「東尋坊」の写真を撮るため某旅行社の「北陸バス・パッケージツアー」に加わった。自分で運転
して行くよりも楽で安い上、いくつかの見物場所のおまけがついていたからである。
ところが肝心の福井県・東尋坊海岸に着いたときはどしゃ降りで、かついで行った重たい三脚と交換レンズは無駄になってしまった。
その代わり、特に見る気のなかった「永平寺」で、とても興味深いものに出会った。
はからずも連れて行かれたおかげだった。
このお寺は、約750年昔に道元禅師という偉いお坊さんによって建てられた禅宗の修行道場なのだそうだ。展示物の中に、次のように書かれたものがあった。おそらくそのお坊さんの言葉だろう。(要旨のみ。字句は不正確)「自分の宗教を信ずる余り、他の宗教をそしる(けなす)ことをしてはならない。すべての宗教は人々を明るく照らすものだ。
(互いに許容し合うべし)増して、宗教が異なることを理由に武器を持って戦うことはもっての外である」
宗教は、宗派に別れて争い始めた瞬間に、本来の根源的な宗教とは異なるものに堕す …… これは水野の持論のひとつである。
人類は、植民地獲得/領土拡大のための戦争はずっと昔に止めた。イデオロギー勢力圏拡張のための戦争もようやく止めたように見える。
けれども、宗教と民族に関わる戦争は、今だにいくつかの地域でやっている。最近の例では「民族浄化」などという、時代錯誤としか言いようのないひどい言葉が使われている。(英語で何というのか、知っている人は教えて下さい)国家、民族という名の下に、善良な人々が兵器を持たされて集団で殺し合う。
他のどんな動物もやっていない行為だ。巻き添えで多くの市民が逃げ惑い、生き別れ、傷つき、死ぬ。人間だけの、おろか極まりない振る舞いである。
そんなことをするくらいなら、人間にとって宗教も国家も不要である、とさえ思ってしまう。
その大きな過ちに早く目覚めて、現代では意味のない憎しみ合いを捨て去るべきだ。。水野の持論を……じゃなくって道元禅師の心を理解して。
もうひとつ。
永平寺は、僧侶になるための修行道場である。二百人の若者が住み込み、毎朝3時半に起きて修行に励んでいるのだそうだ。苛酷な修行が有名だ。敬謙で厳粛この上ない場所だ。
それが、何と、観光資源そのものになっている。参道には土産物屋がびっしりと建ち並ぶ。BGMこそ無いものの、さぁ、いらっしゃい、これがここの名物だよ、という雰囲気だ。
壮大な寺院の建物群の中を観光客が歩き回る。ワタシもボクも、手をつないだカップルも、ほろ酔い気味かもしれないおじさんも、みんな愉しげに見て回る。
要所要所で説明する純朴な雲水(修行僧)は、生真面目な表情で「ご説明することも修行なのです」と言う。
座禅や法話、読経などは勿論、床の拭き掃除も食事作りも用便さえも、生活のすべてが修行なのだそうだ。
そういうものすごい場所を軽々しく見ることを、誰もが当たり前だと思っている。
おばさんが「あのお坊さんはビルマの竪琴の中井キイチみたい、かっこイイ」などと言っていた。まるで芸能番組状態だ。見られる雲水たちの方さえも、これが当然至極だという風情である。
神聖な宗教とお遊びの観光、熾烈な修行と金稼ぎの商業、到底受け入れられ難いはずのもの同士が、ものの見事に融合してしまっている。
これは 圧倒的な奇観 だ、と思った。本当に驚いた。
道元がこれを見たらどう感じるか? 釈迦ならば? それより外国人観光客の目にはどう映るのだろう?
外国の教会にはこういう状況はあるのか? ……何か言いたくて仕方がない。
だが、みんな愉しげで平気な顔をしている。ここで「これは変ですよ」などと言おうものなら、世間知らず、と言われそうだ。下手をすると奇人変人扱いされかねない。
参ったな、これは。じっと我慢して、皆さんと同じ平均人間のふりをしてバスの座席に戻った。思うことを言えないのならこれしかない、と、カメラバッグの隅からそーっとウイスキーボトルを出した。
■ 作文の練習 「1999年6月」
日本語は、主語と動詞が離れている。
「私は」で始まった後、いつ、どこで、誰と、どうして……と続いて最後に「……しました」という動詞が来る。そこでようやくひとつの情報が伝わる。
中間を聞かされている間は、最後が「しました」なのか「しなかった」のかという、極めて重要なことが分からない。
「して欲しかった」だけかも知れないし、「しなけりゃ良かった」のかも知れない。それがどうなのかが分からないまま、中間の”何のために、どうやって……”などと聞かされ続けることは苦痛である。そういうときに誤解や勘違いが生じやすいのではないだろうか。
芸術的な評価は別として、情報を正確に伝えることに限ると、主語と動詞は近ければ近い程良い。
少々雑に言ってしまえば、文章は短い方が良いということになる。書くのも話すのも同じだ。短い文章を順序よく続けて、伝えたいことを早く正確に伝える工夫が大切だと思う。
作家の井上ひさし氏が、指摘した例。(週間文春 ’89年5月18日号)
【雨の日に傘をさして自転車に乗ると、風にあおられたり、また前かがみに傘をさすので前方が見えなくなって前からの車に気がつかなかったりして危険です。(M自転車の取説)】
”「雨の日に傘をさして自転車に乗ると」を、「危険です」に直結させた方がいい。こうやって読者の注意をぐいと引きつけておき、そのあとで理由を列挙する。その方がはるかに伝達度が高い。説明文は、いわば非文学的文章である。入り組んだ構造の文を誰も望んでいない。
できるだけ単純な構造の、それも修飾句の少ない短文で、知識を読者のもとへ送り届けてほしい。”
【エアコンをより長く快適にご利用いただくため、定期的にお買い求めいただいた販売店へお車を持ち込まれ、点検・整備を受けられることをおすすめします。(T社純正カーエアコンの取説)】
”(この文は)三回ぐらい読み直さないと意味がとれない。〈カーエアコンを販売店で、定期的に点検・整備してください〉と呼びかけたいのである。”(以下要旨のみ)だが、この流れではそのメッセージが読者にすんなりとは伝わらない。「定期的に」と「お買い求めいただいた販売店」とを切り離すこと。また、「持ち込まれ」は変だ。
尊敬語のつもりなのだろうが、「れる」には受身を表す意味もある。一瞬「持ち込まれると迷惑だ」みたいな雰囲気が漂ってしまう。(以下略)
[以下は、自分の文章を見直し、書き直した実例である。仕様書や説明書を書くときの参考になるか?]
■ 作文の練習 ー例ー
(1)
【結婚してオーストラリアに住み、1年ぶりに里帰りをした若い女性が「日本がこんなに暗いところだとは思わなかった」と言った。】
まず頭に浮かんだままを書いた。言おうとしているのは「日本とオーストラリアとの習慣、文化の違い」についてである。
であれば、前半に書いたことはテーマとは関係がなく、補助的な説明でしかない。
そこでこれを後へ回し、テーマに直結する記述の方を先にして印象を強くすると共に文章を二つに分けて流れを良くする。
【「日本がこんなに暗いところだとは思わなかった」と、若い女性が言った。結婚してオーストラリアに住み、1年ぶりに里帰りしたときのことだ。】
これで趣旨が鮮明になった。が、考えて見ると「里帰り」の一語で「結婚」して向こうに「住んで」いることが表現されている。重複して無駄だ。ついでに「若い」も不要。それらを削除して簡略、かつ密度を高くする。
【「日本がこんなに暗いところだとは思わなかった」と、オーストラリアから一年ぶりに里帰りした女性が言った。】
(2)
【株式を上場したということは、外部に会社の所有者が生まれたということだ。さぁ働け、稼げ、配当を寄越せ……と、赤の他人から言われる立場になったということである短期間で二部上場を果たした会社の社長が、「見えない株主から耳元で毎日囁かれているような気がして辛いよ」とこぼしていた。】
”耳元で囁かれている”気がするのは”さぁ働け、稼げ……”という言葉である。従ってこの二つの字句が近くにある方が、スムースに吸収されやすい。そこで次の様にしてみる。
【……さぁ働け、稼げ、配当を寄越せ……と、赤の他人から言われる立場になったということである。「見えない株主から耳元で毎日囁かれているような気がして辛いよ」と、短期間で二部上場を果たした会社の社長がこぼしていた。】
これで一つは良くなったが、その代わり「……辛いよ」と”こぼしていた”とが離れてリズムが乱れてしまった。次の様に直して完成(のつもり)。
【……さぁ働け、稼げ、配当を寄越せ……と、赤の他人から言われる立場になったということである。「見えない株主から耳元で毎日囁かれているような気がして辛いよ」とこぼしている人がいた。短期間で二部上場を果たした会社の社長である。】
■ 伝わらない心 「2000年7月」
大企業の中では珍しくダイナミックなS社の社長が、若者たちに向かって言った。
「上役から言われたことは何でもやります、と言うような社員は要らない」(平成十二年七月の新聞記事)
上役に盲従するな。例えどう言われようとも、何が正しいか、どこに価値があるの かを自分で考え、堂々と意見を述べよ。時には反発するくらいの自主性と価値観を持て。
その企業風土の中から、新しいビジネスプランと力強い推進力が生まれるのだ、とう意味だろう。
さすがあの会社、大したものだ。
けれども、永い間組織の鉄の壁に囲まれて生き続けてきた人たちにの中には、まったく理解できない人がいることだろう。
言っていることは判るのだが、自分の人生ではいつどういうときにどうすればいいのか、については皆目見当がつかない人もいるはずだ。言葉は伝わっても、本当に伝わるべき精神は伝わらない。
組織の文化が違うためである。
フレッシュな新入社員ならば素直に吸収する。
素直である上に少々そそっかしい場合には、「そうか、この会社では上役に反抗することがいいことなんだな」と勘違いする可能性がある。自分の思いに合わせた文章に、無意識のうちに作り変えるのだ。
それで字面が似ているだけで、決定的に意味の異なる認識が生まれてしまう。
すると中には、当然至極の注意を与えられたときに、さぁ、ここで何とか反発しなくてはいけない、と懸命に考え込む若者が出るかもしれない。
そんなことは実際にはないだろうが、安いテレビドラマのネタくらいにはなる例え話だ。文章は、発した人の心の通りに受け入れられるとは限らない、ということである。
言葉は意志や情報を伝えるための符号であって、意志や情報そのものではない。
符号は、解読する側の立場、感覚、都合などによって、思いもかけぬ曲解や勘違いや思い込みを生むことがある。
符号を発する側も解読する側も、いつでもそれを意識している必要がある。
中米のある国で、日本人旅行団が現地の人の襲撃を受けて死傷者が出た。
報道によると襲ったのは特殊な暴力集団ではなく、一般の生活者たちだったとのことだ。村人の間に、近々外国人が子供をさらいに来る、という噂が流れていて、それを真に受けた住民が折しもやって来た日本人観光客を襲ったのだという。
被害の関係者には、誠にお気の毒ですと心から申し上げる他無い。ここでは言葉という符号の解釈と、危い思い込みの例として使わせていただく。
この悲劇について外務省と主催旅行会社の両方が、似たようなコメントを出していた。
曰く、「この国が危険であるという事前の情報はなかった」
危険だとは言われていなかったから、安全だと思っていた、と言外に言っているのだ。安全であることの確認はしていなかったのだろう。
旅の専門家であるツーリスト、外国情報を司る国家機関の態度としては弱々し過ぎる。日頃の甘い仕事振りが垣間見える発言だ。
外国人が子供をさらいに来るという話は、我々にはとても現代のものとは思えない。
そう思えないところに、勝手な誤解が生まれる源がある。思いもよらない感覚、圧倒的に異なる風土の存在を想像できなければ、そこに危険が潜む空洞が生じる。
「危険はない」ということが「安全である」ということにはならない。
よく知っている町のことならば、最近特に危険はないよ、の一言で安全と知れる。
テーマパークのお化け屋敷ならば、怖いと言ってもたかが知れている。だがれっきとした国家、それも日本の日常では馴染みの少ない遠い国である。
”秘境”と言うからには、独自の風習と観念があり、想像を超えた行動パターンもあるかもしれない、と感じ取っておくことが自然なのではないだろうか。増して専門畑にいるのであれば。
何年か前、民間の銃砲所持が合法である国へ行った日本人青年が、ちょっとした間違いで射殺された事件もあった。これも様々な議論の対象になった。
逆に銃砲の所持は禁止されている、という国であっても、それなら安心だということにはならない。バタフライナイフとボウガンが家庭の常備品になっていないとは限らない。
地域紛争の後遺症で、原っぱに地雷が残っていたり、子供が拾った手榴弾がその辺にころがっていることだってあり得る。
それどころか、どこにでもある野球の道具が殺人に使われたり、料理の道具でバスジャックされてしまう国もある。
地球はそれくらい広い。
その視野からすれば、我々が日常的に認識していることなどほんのわずかばかりのことにすぎない。抱いている思いも、自分だけに都合良いように著しく偏ったものなんだ、と考えて置くべきだろう。
そういう心を持って、あちこちから発せられる符号を幅広く柔軟に解釈する習慣を持ちたいものだ。
そう考えると、何だか気持が縮こまって暗くなってしまいそうだが、その必要はない。
どの国の誰だって似たようなものだ。みんな同じようなせまい知識と勝手な思いを抱いて生きているのだ。
地球上の似た者同士、みんなで仲良くしようね、と大らかに楽しげな態度でいることは、ちっとも難しいことではない。
■ ミレニアムって何だ? 「2000年8月」
失言首相が公式のスピーチで、「ミレニアム」のことをミニレアムだかミレアニムだとか言い違えて笑われてしまった。ご本人が使い慣れていないそんな言葉を、原稿を作るお役人は書いてはいけなかったのだ。
何しろサミット会場の「しんりょう館」のことを「りんしょう館」と言って高校生を面食らわせたくらいの人だ。
流行語を使うことはなかったのだ。無理に使わなくても、立派に聞こえる演説原稿はいくらでも書けたはずである。
つい書きたくなるほど目に飛び込んでくる「ミレニアム」とは一体何のことなのか?
広告宣伝や記事の見出しなどに、毎日のように登場している。中にはミレニアム大バーゲンセールなどというのもあって、どうも変な感じがする。「千年紀」と訳されていることもあるのだが、それも分からないので辞書を引いてみた。国語辞典には載っておらず、英和辞典の方にあった。
ミレニアムとは、始めに「一千年の期間」とあった。次に宗教的な意味が含まれるような説明があったが、日本人には関係が少ないので読み飛ばした。
「一千年の期間」という意味ならば、やはり「大バーゲン」の前につけるのはおかしい。
そんなに永い間大安売りを続けることは出来る訳がない。デパートやスーパーならばそれよりも、あと何年間つぶれずにやっていけるのかの年数の方がはるかに切実な問題だろう。
ふと思いついて「二十世紀」の世紀に該当する「センチュリー」を引いてみた。
これはズバリ「百年間」とある。一九〇一年から二〇〇〇年までの百年間を、二十回目の百年間だから二十世紀と言う、ということだ。百年がセンチュリーで千年がミレニアム、ということなのだ。
そうであれば「ミレニアム」という語の正しい使い方は、「西暦二〇〇〇年の今年は第二ミレニアム最後の年」、「来年から新しいミレニアムが始まる」というような表現なのではないだろうか。
そうだとすると、あちこちで使われている「ミレニアム」の少なくとも半分以上は間違い、もしくは滑稽な表現だということになりそうだ。
ただしこれを調べた辞典は、初版が一九七五年という古いものなので、現在の英語圏では多少広げた意味を含めて使われている可能性はある。そこまで調べることをしないまま、これを書き放ってしまうことにはちゃんと理由がある。
関心を持った人、揚げ足を取ってやろうと思う人に、自分で調べる気を起こさせるための余地を残しているのである。
「ミレニアム」については、実は言葉の使い方以前に別の抵抗感があった。
そもそも世紀やミレニアムの観念は、キリスト教を基にする年の数え方によるものだ。日本には独自の数え方があり、役所や固い会社の書類には「平成」何年と書くことが多い。
日本人同士ならばそれで良いのだが、外国とのやりとりには使えない。
その上西暦一九八九年には昭和六四年と平成元年という二つの和暦年がある。
これを正確に判ってもらうためには相当の外国語力が必要だ。通じたとしてもかなりの時間がかかるだろう。
下手をすると歴史文化論の方に脱線して、肝心の商談を忘れてしまう恐れもある。
そこで便法として、ほぼ万国共通と考えられる西暦が使われる。最近の新聞の見出しでも「02年三月に完成予定」というように使われている。スっと吸収されやすくするための便法である。
ただの便法なのだと考えると、その数字の一〇〇とか二〇〇〇の区切りについて日本人が特別の意味を持たせようとすることは不自然だ、という気がしてくる。
ミレニアム記念の二千円札発行とか、「さあ、いよいよ今世紀最後の日本シリーズです」などと叫ぶことに空しさが感じられる。
よその国の独立記念日やハロウィンに心が踊ることが無いのと同じように、キリスト生誕の年から起算した年の数字に特別の意味を感じることは変なのではないだろうか?
確か何十年か昔、「今年は紀元二千何百年」だとか言われていたような気がする。
仮にその数え方が今も続いていたとすれば、今年あたりは区切りの年でも何でもなく、ただの途中の年である可能性が高い。そういうことも考え合わせると、他国の神様が生まれてから何年という数字よりも、自分自身が生まれてから何年か、それで定年まであと何年だ、という数字を気にしている方がずっと自然に見える。
一方日本の文化の根源は、キリスト教文化よりむしろ古い中国の影響を受けている部分が大きい。
誰もが毎日接している漢字とは、正に漢の国から伝わった文字だということだ。
それほどお世話になったのだから、年の数え方や意味の持たせ方も中国式でやってはどうなのか? 現代の中国でどうなっているのかが判らないから無理か?
クリスマスとバレンタインデーは両方とも、この国の男女交際推進日みたいになってしまっている。本来のキリスト教の趣旨からはずれていて、それを気にしている人も殆どいない。そのうちに、「へぇー、イギリスにもバレンタインデーがあるんだ、日本と同じなんだぁ」とカンゲキする若者が出てくるかもしれない。
お正月になると突然神道の社をお参りする。結婚式も殆どが神様頼みだったが、最近では教会のごやっかいになる若者も少なくない。何がどうあれお葬式は、依然仏様の方にお願いしている。そのくせお盆については、殆ど宗教行事の意識は薄れて大型夏休みの代名詞みたいになっている。
軽薄でシッチャカメッチャカなのか、柔軟なオープンマインドなのか?
神社、お寺、教会のどこからもクレームは出ていないようだから、目くじら立てて考える必要はないということのようだ。
それはそうだとしても、宇宙の営みを感じ取る視野からは、世紀末とかミレニアムの文字に日本人が特別の思いを抱く様は愚かしいとしか言えない。地球が太陽の周りを一回りし、まだ回り続けているというだけのことだ。
いつから数え始めて何回目なのか、そんなことには太古の昔も遠い未来でも、便法であることを除いて何の意味もない。
違うと言うのなら、ヒトよりも古くから存在し、地震をより早く予知するらしいナマズとかネズミに聞いてみればいい。
今度の正月は何か特別の年なの? 答はノーに決まっている。夜になって、それから朝が来る、いつもと同じ一日だよ。それが自然界からの冷静な答だ。
ナマズと会話ができなくても、「世紀末恐怖の大予言」におびえたり、「感動!ミレニアム特別企画」などというトンチンカンな文言に胸をときめかしてしまうことのないように、気を付けていることだけは必要だろう。
■ たれ流しポット 「2000年9月」
ゴキブリ退治にとても良い方法がある。
やることは簡単だ。あの姿を見たら、ポットの熱湯を湯呑みに半分ほど入れ、パシャっとかけてやれば良い。
ゴキブリは動きが素早い上、人の動きを敏感に察知する。だから新聞紙でたたこうとしても殺虫剤を浴びせようとしても、成功率は高くない。
ところが、湯が空中を飛ぶのもパシャっと跳ね返るのも、そのスピードはあの憎い奴の動きに勝る。湯の中心部が命中すれば一発でコロリである。例え中心部がはずれても「バシャッ」の飛沫がかかるだけでダウンする。
仰向けになってもがくところへ、湯呑みの底に残っている湯を落ち着いてかけてやる。これで一丁出来上がりだ。一回目に少し残しておくか、始めから二杯用意しておくのが必殺のコツだ。
この方法の最も優れている点は、完璧な清潔さにある。たたき潰すこととは比べるまでもない。
殺虫剤の噴射は、後で薬効成分を拭き取らなくてはならない。食器や食べ物にかからなかったか、赤ちゃんの手が触れるところまで飛散しなかったか、心配である。
だがお湯には害がない。だから食器やオモチャの近くでも、委細構わずバシャリとやれる。その上撒いた湯を拭き取ることによって、自然な汚れを掃除することになる。ゴキと汚れの両方を一掃するのだ。一石二鳥である。コストも低い。大発見である。
清潔ゴキ退治のための熱湯は、今では電気ポットに入れられている家庭が多い。
昔は、魔法瓶という入れ物だった。ガラスで真空の層を作り、周りを金属かプラスチックで保護した容器だ。ヤカンで沸かした湯を入れておくと、ずっと熱いまま、というよりも、なかなか冷めない、冷めるのが遅い、というものだった。お茶をいれるには、上のネジ蓋を回してゆるめ、魔法瓶全体を持ち上げて傾けた。
うっかり床に落して、中のガラス瓶が割れてしまうことがあった。
そのうち、ネジ蓋式に代わって頭頂部を押し下げる方式のものが出てきた。ぐっと押した圧力で、湯がパイプを通って押し上げられ、上の注ぎ口から出てくる。
手動ポンプ式である。ポンプで汲み出すので本体を持ち上げる必要がない。
持ち上げる必要がないから大きい方が良いということになり、一升瓶より多い二リットルとか三リットルとかも入るものが巾をきかし始めた。でかくても重くても、テーブルの上にどーんと置いておけば良い。
大型化とあいまって、ただ冷めにくいのではなく、ヒーターで加熱するものが登場した。
入れられた水を電熱で沸かす。一旦沸いた湯の温度が下がると、自動的にヒーターが入って再び加熱する。
節電のためにガスで沸かした湯を入れる奥さんもいるが、始めに入れた後は同じことである。
一日中いつでも、熱いお茶やコーヒーがすぐ飲める。それに対ゴキブリ戦では、発見してからヤカンに水を入れて沸かすのでは間に合わないから決定的に有利である。
そしてついに数年前、電動ポンプを付けたタイプが登場した。おそらくは、どうせ電気のコンセントにつないだのだから、という気分からのことだろう。
手で押し下げるほどの力を要せず、指先で小さなボタンをプチと押せばウィーンと湯が出てくる。便利である。
だがこの辺りになると、自然派人間としての抵抗感が沸いて来る。
便利ではある。だが、誰にとって、いつどの様に便利なのか? 頭頂部をぐっと押し下げる力のない人は世界中に何人いるのだろうか? その内誰かに頼めない人は何パーセントか? あのモーターの部品代は一個いくらなのか?
それを払う価値はあるのか?
手押しポンプのどこがいけなかったのか? それに何と言っても、停電になったらお茶もコーヒーも飲めないではないか。
それはがまんするとしても、ローソクの灯りの中に真っ黒なでかい奴がスルスルっと登場したら、一体どうすればいいのか? ヤカンを取りに立ち上がれば、奴は逃げてしまうだろう。
どう考えても、電動ポンプに利は少ない。
最近、公衆トイレの水洗スイッチに、温度センサーを使ったものがある。
コックをひねったりボタンを押す代わりに、センサーに手をかざすだけで水がザァーっと流れる。誰がどんな手で触ったのか判らないものに、触れずに済むのだから清潔感がある。と言うより、本当に清潔である。
そのやり方が判らなくて、流されるべきものが流れずに困り果て、ついに大声で助けを呼んだおばあちゃんがいたという話を聞いたが、彼女だって恥ずかしい思いは一度だけで済んだ。今では、知らない人に教えてあげたいと言っているそうだ。
だがその清潔さ、便利さも、電流が来ているときだけのものだ。センサーシステムは電力で機能する。ひとたび停電になれば働かない。手をかざそうが叩こうが蹴飛ばそうが、水は出てはくれない。おばあちゃんもおばさんも妙齢のレディーたち、あ、勿論男達も、清潔感と便利さとは程遠い思いをしなければならない。
断水や渇水のため、水洗が流せずに困ったという体験のある人はいることだろう。
これからは水だけでなく、電気の方も気にかけなくてはならなくなるおそれがある。
あれを作った人は、その事態をちゃんと想定しただろうか? 補助電池を接続してあるのか? その容量は何回分か? 電池の定期点検は忘れられてはいないか?
便利なものは、その便利さのために、致命的に不便になる場面があり得る。それを考えておくことによって、いざという時に平然とした態度を保つことが出来る。
最近流行りの「危機管理」の一パターンだ。
湯沸しポットには困った点がもう一つある。
胴体の外側がかなり温かいのだ。温かいということは、それだけ熱が逃げているということだ。その分だけ温め直さなくてはならないから、電力を無駄に使い続けている、ということである。
昔の魔法瓶には、胴体が温かいなどということは断じて無かった。それほど温度を逃がしてしまっては、中のお湯はすぐに冷めてしまう。
それでは商品にならないから、熱を逃がさない構造にしていたのだろう。何十年か前のその工夫はどうしたのか?
さして難しいとは思えないことを、何故やらなくなったのか? 冷めるそばから温めてるんだからいいじゃないの、とでも言うのか? それでは貴重な電力のたれ流しではないか。
冷房中の部屋だったら、電力で折角冷やした空気を、同じく電力で温め直していることになる。
ブレーキをかけながらアクセルを踏んでいるのと同じだ。ただのたれ流しの二倍の罪である。
世の中の無駄や不合理には、それで密かに得をしている人がいるケースが往々にしてあるものだが、これはどうなのか?
あちこちで叫ばれている省エネの効果が上がり過ぎ、売上低下が起こることを恐れる電力会社の陰謀なのか?
そうでないのならどうして怒り出さないのだろう? 不思議だ。
■ お役所にも英断 「2000年12月」
神奈川県が来年度から、職員の出張に対して日当を支払うことを廃止する、と11月29日の新聞地方版が
報じた。
現在は、勤務場所から80キロ以上離れた所へ出張すると2千円から2千6百円を支給している。
それより近くても8キロ以上の所ならばその半額が支払われる。これを昼食代やバス、タクシー代などにあてなさいという、古臭い考え方による規則だ。
これを来年度からは、日当を廃止してバス、タクシー代は実費支払いとし、「電話代」の名目で県内出張には一律に2百円、県外出張には同1千2百円を支払うことにした、ということである。食事代は消えている。
朝日新聞はそれを取り上げて「日当縮小、昼食代は公費改め自腹」と謳い、年間5~10億円節減の見込み
という役人のコメントを載せていた。主に出費の節約の面を伝えているのだが、この改革にはそれとは別の
意義がある。
電車賃は別に実費精算するのに、バスとタクシー代は日当に含むというのは変だ。
趣旨があいまいで内容が不透明、場合によっては日当が実費を上回ることもあった、と読売新聞には書かれ
ている。この不合理をなくすための修正なのだ、という伝え方である。
宿泊費も変わる。これまでは職位によって支給される額が違っていた。上司と部下が一緒に出張し、同じホテルに泊って同じ金額を支払う。それなのに貰える金額が違うのだ。給料と賞与に差がある上に、こんな所で差がつけられる理由はない。これを改め、誰にも一律の金額にするという。拠点都市と地方都市による違いはあるが、部長さんも平の部員も同額だ。もう一つの不合理が消えることになる。
この記事を読んで真っ先に抱いた思いは、役所の中でも民主的かつ合理的な人間性が力を発揮し始めたのだ、という好感だった。何かにつけて前例と規則を振りかざすだけの頭の固さに、不快な思いと立腹を繰り返してきただけに、この変化をとても嬉しく感じた。
おそらくはずっと昔から、この規則はおかしいなぁ、というつぶやきはあったはずだ。
中には、恐る恐る上司に言ってみた若者もいたかもしれない。それらは永い間無視され続けてきたのだ。
良い役人は前例と規則に従っていればいいのだ、と怒られた者もいたことだろう。正しいと思うことを口にすると叱られる、それなら言われたことだけをやっておこう、何が正しいのかなどと考えることは止めよう、ということになる。そうなってしまった人間ばかりの大集団、それが役所だ、としか思えなかった。
だが今度は違った。つぶやきが提言になった。言われた方もそれを受けとめた。
良い考え方、古くて不合理なものを正そうとする態度が表面に出た。当たり前のことが行われるようになったのだ。
ここ数年、人前でスピーチするお役人の話し方が変わってきたと感じていた。
古めかしい言葉や丁寧すぎて回りくどい言いまわしが減り、普通のビジネス感覚のしゃべり方に近付いた。
自分が年をとったことの裏返しでもあるのだが、お役人の世界も世代が交代しつつあるのだな、と思っていた。昔は持ちようのなかった期待が、少しは持てるかも、という気がしていた。
行革の土光敏夫さんは、乞われて大企業の社長になったとき、社訓の言葉を書いて下さいと頼まれたのに
対して、「そんなものを書いたら毎日書き直さなくてはならなくなる」と言って断ったという話だ。ある日のある状態で定めた文章に、その後いつまでも縛られ続けることは愚かしいことだ、と言っているのだ。
その意味でも県の日当廃止と宿泊費一本化は英断だと言える。
読売の記事によれば、1年前から労使間で協議を続けてきた上での結論だという。
働く側から見れば、実費を抑えて旅費を浮かして小遣いの足しにするという、ささやかな役得のチャンスが
減少するにもかかわらず、これに同意したということだ。
個人のさもしい得よりも、全体の公平と合理性の方を選択したように見える。
ここにも心地よい爽やかさを感じる。
ただし細かいことを言えば、不合理は減少するものの、ゼロにはならない。
1日の出張につき電話代として定額を貰っても、実際に電話をかける回数や通話の長さは人と場合によって
大きな差があるはずだ。沢山かけずに残りを懐に入れる人、逆に業務連絡が長くなって赤字になる人もあり
得る。
宿泊費の方も、職位による差はなくなるが、同じことが言える。大きなイベントのためにビジネスホテルが満室で、やむなく高級ホテルに泊れば赤字になる。
格安の施設を見つけておけば、出張のたびにビール代を浮かすことができるとはいえ、これは些細なことだ。
とても好もしい変化があったということに変わりはない。
今後とも、そこら中のお役所で、これに似た変革がどんどん生じることを期待しよう。
記事の見出しには、出張日当の廃止は「都道府県では初」とあった。
そうか、さすが我らの神奈川県、偉いぞ、と思った次の瞬間、気にかかることが生じた。「都道府県では」の「では」の字に注目すると、それなら市町村役場ではどうなの? 国の役所ではどうしてるの? という素朴な質問が浮かぶ。
新聞はそれにまったく触れていない。報道としての厚みが不足している。
そこまで気が回らないのか、紙面が足りないのか?
仮に、民間会社ではどうなのだろう、とまで気の回る優れた記者がいたとして、彼がHaLに取材に来たとする。
彼は驚き、感動して大きな記事を書くことだろう。
何故かと言うとHaLでは、バス・タクシーどころか宿泊費までも実費精算方式にしていること、さらにもっとすごいのは、そのルールが生まれたのが昭和59年、つまり16年も前だった、ということだ。
つまり、神奈川県の今回の進歩は全国47都道府県に先駆けてのものではあるけれども、それでようやく16年も昔のHaLの合理性に少し近付いただけに過ぎない、HaLはそれほど先進的なのだ……などと言うと、年寄りのオーバーな我田引水だと言われてしまいそうだ。
■ 甲羅のないカメと鈍足ウサギ 「2001年1月」
〔これは、17年前の社内報に書いたものの”ヘビ年拡張改訂版”である〕
平成13年、巳年。
ヘビの年である。頭も目も口もあるのに足がない。地上をクネクネと這って進む。不思議な動物だ。
数千万年昔の地球上には、恐竜などの爬虫類がたくさんいた。その一種であるトカゲの先祖は、小さな生物を捕食して生きていた。中に少し鈍いグループがいて、地上での餌獲り競争に勝てなくなった。
餌が獲れなければ生きていかれず、やがては種族が滅びてしまう。そこで他の仲間には見えない、地面の下にいる餌を獲ることにした。ネズミやモグラなど、小さな穴の奥に隠れている生物である。
だが、穴にもぐろうとすると手足が邪魔になる。それでも種族存亡をかけて頑張っているうちに、これならいっそのこと手足がない方がいい、といういことになり、その通りに姿を変えた。こうしてトカゲから分化したヘビという動物が誕生した、ということらしい。百科事典には「四肢の退化した爬虫類」と定義してある。
生きて行くために都合の良い体形に「進化した」のだ、とも言われる。
ヘビには毒を持つ種類がいる。餌の生き物に飛びついて噛み付き、歯から毒を注入して殺すための武器だ。
毒を持たない種類でも、小動物を一口で飲み込む大きな口、あるいは動物に巻き付いて締め付けるだけの体長と強靭な体力がある。それで餌を確保する。どちらも永い進化の過程で、生存し続けるためにその能力を身に付けたのだ、と言われる。
大きなヘビに狙われるウサギには、鋭敏な耳と脚力がある。天敵の接近をいち早く察知し、逃げ去ることのできる走力がウサギの武器だ。
そんなことは出来っこないカメには、頑丈この上ない甲羅がある。何が来ようとその中に、頭も手も足も引っ込めてじっとしていればよい。あれに噛み付いて食べようとする動物はいない。
鉄壁の防御用武器だ。さらに、その重たい要塞を背負ったまま歩けるように、四肢はどっしりと太い。
同じカメでもウミガメの場合には、足の先がヒレ状になっていて海中での生活に都合が良くなっている。
こうしたことについて「造化の神の巧みさ」と表現されることもある。
鳥に食べられやすい昆虫類は、例外なくメスの方がオスより大きい。たくさんの卵を産むことができるためだ。
食べられてしまう数よりも多くの卵を産んでおけば、種族を保つことができるわけだ。「神様は、それほど多くの卵を産む形を昆虫に与え賜うた」ということになる。
琵琶湖に住むナマズが産卵するのは、夜暗くなってからだ。「産まれた卵を食べる他のサカナが少ない時刻を選んでいるのです。子孫を残すための知恵なのです」とテレビで言っていた。
植物も同じだ。梅雨どきの雑木林の中には、真っ白な花が多く咲く。これはうす暗い木の下でも、花粉を運んでくれる虫たちの目をひくためなのだ、と言われる。
ヒトの武器は考える力だ。
「神様はどの生き物にも、生きていくための武器を一つずつ与えて下さったのです」―――誰でも一度は聞いたことのある話だろう。
本当にそうなのだろうか?
マンモスも、地上に君臨していた無数の恐竜も大昔に絶滅した。人類でさえ滅びた民族、途絶えた文明があるという。
地上から消えた動植物は他にもたくさんあるはずだ。そう考えると、もしかしたら、大昔には甲羅のないカメがいたのではないか、という気がしてくる。
造化の神様だって忙しい。次から次におねだりに来る勝手な生物を前にして、アイデアのタネが尽きることもあったはずだ。
だから、鈍足のウサギやメスの方が小さい昆虫、真っ昼間に卵を産むナマズ、それにいつまでも手足をつけたままの鈍いトカゲ……などなどもきっといたのだ。
それらは永い年月の流れの中で、生き延びるための武器を持たぬがゆえ絶滅した。だから今はいない。
それではいまも生存している生物は、自分の創意工夫で武器を獲得したのだろうか? トカゲは自らの意志で、貴重なはずの手足をもぎ取ってヘビに変身したのか?
そうとも思えない。
カメが重たい甲羅を背負って歩くうちに、足が太く丈夫になったのだ、ということは考えられる。
長期に亘るウエートトレーニングの成果だ。だがその前に、そもそもあれほどの甲羅をどこからどうやって得ていたのか、については考えようがない。その上トカゲは一体どうやって、自分の手足を失くすことができたというのか?
動物が身体の一部を失うことについて想像できるのは、他の動物に取られてしまう場面だ。
おそらく鈍いトカゲの仲間は、餌を獲れずに死に始めた。生き残ってマゴマゴしているところを、他の大きな動物に食べられた。
中に運の良い何匹かが、手足だけを取られて胴体が残った。歩くことが出来ないから、やむなくのたうち回って這った。
中に腹のギザギザが増えた奴が現れ、まともに動けるようになった。それらが生きるために、本能の動きの中で地中の穴の底の餌を見付けた。
他の動物には獲れない、自分たちだけの餌だ。それで生き延び、子孫を残した。
そしてやがてヘビの形になった。
ヘビの祖先は、地中の小動物を捕獲する「ために」手足をなくしたのではない。手足を取られてしまったために多くは死んだのだが、たまたま腹で前進する能力を身につけたタイプだけが生き延びたのだ。原因と結果が逆だ。
環境や目的に合わせて「進化」したのではなく、たまたま都合よく「変化」したので幸いにも死なずに残ったのだ。
そういう変化をしなかったり、無駄な変化をした個体は生き残らなかった。
こう考えると、現在地球上に生きているものはたまたま運良く絶滅することなく、今のところ生き残っているにすぎない、ということになる。
林の中には色々な花があった。そのうち目立たない色の花は、虫たちが受粉の手伝いをしてくれないためにすべてが滅んだ。結果として白い花だけが残った。
存続するために他の色から白に変わったのではない。理由を元々持っていたから滅びなかったのだ。
今われわれが生きているのは、神様が与えてくれた能力のおかげなのだと感謝することは謙虚で良い。類人猿の自然への適応力による進化の結果であるという理論も正しいのだろう。だがそれだけでは他力本願だ。自分は何もしなくてよい、誰かが何とかしてくれるのだ、という甘えがある。
生物学の理論と宗教心をちょっと棚に上げて、日々を力強く楽しく生きるために、こう考えた方が面白い。
今生きているのは、偶然なのだ。ということは巨大な自然界の環境が変わり、もしそれに順応することができなければ、衰退も絶滅もあり得るのだ、と考えておく。
そうすれば毎日、何がどう変化しつつあるのかについて、鋭敏に察知しようとする心が持てる。変化のうちのどれが正しくてどれが誤りなのかを考える習慣が身に付く。変化に適応するための武器と防具を、自らの創意によって備えようとする意志を保つことができるのではないか。
世界中のみんながそうしているのだ、と思えば、民族や信ずるものが違っていても平和に共存し合おうという心を持ちやすい。
人類が未来を生き続けるためのキーを、今生きているわれわれ自身が握っているのだと考えることによって、本物のたくましさが維持されるように思える。
■ 鵜呑みは危ない調査報告 「2001年8月」
「外国人トップ 8割が賛成」――今月7日の新聞記事の見出しである。このトップとは企業経営者のこと。
外国人を経営者として迎え入れることに賛成する人が前年よりも増え、ほぼ8割に達したという。
調査対象は大企業の新任取締役で、日産のフランス人豪腕社長によるコスト大幅削減成功の影響などにより外国人トップに対する抵抗感が薄れてきているのだろう、という報道である。
だがこれを見て、へぇ、賛成者が8割もいるんだ、とだけ鵜呑みにしてはいけない。
○パーセント、何割、何倍、といった数字はとてもストレートでシンプルなので、頭にすんなり入りやすい。
だから見出しには、そういう数字が踊る。けれども真実を正しく捉えようとするのなら、すんなり入れてしまう前に注目しなければならないことがある。
まず調査者とその回答者はどんな人たちだったのか、ということだ。この調査は日本能率協会グループが
実施したもので、今年1~6月に新任された上場企業の取締役のうち、無作為に選んだ1071人が対象だった。
ここに問題はない。
次に答の内容を見る。すると、(外国人トップは)「経営の刷新時には必要」が25%、「有能な人材なら招へいすべき」が54%で、その合計が79%であることから「賛成が8割」と報じているのだ。
つまり、ただの「賛成」という選択肢はなくて、代わりに「……の場合には」「……ならば」という条件付き賛成の選択肢が用意されている。
この文章は「どちらかと言えば困るのだけれど、そういう場合ならば、まぁ、しょうがないなぁ」という気持の人に○を付けさせるためのものだ。
答を誘導しているのだ。、賛成しやすくなる、あるいは賛成せざるを得ないような条件を付けて「無条件に賛成」ではない人をすくい上げ、「賛成合計」の数を多くする手法である。「賛成8割」はこうして作られるのだ。
もうひとつ、もっと大きな問題がある。答の回収率だ。記事の中に「有効回答は245件、22.9%」と書いてある。
ということは、1071人のうち800人以上もの人が回答しなかったということだ。
その人たちの中には、ついうっかり、忙しくて、などが理由である人も多いだろう。
だが大切なことは、賛成ではない人ほど回答する気にならない、という一般的な傾向が考えられることだ。
質問されたのは大企業の取締役だから、立派なオジさん世代だ。「私は外国語が出来ないし、異文化の人の部下にはなりたくない。
反対だ」と思った人が少なからずいたと考えられる。だが、その通りの回答を書いて送ることは気がひける。
それを正直に言ってしまうと、この国際化の社会にあっては無能で時代遅れの頑固者と思われかねない、
と感じるからだ。かと言って賛成項目に○を付ければウソをつくことになる。
どうしようか、と思い悩んでいるうちに期限が過ぎてしまった、という人が何割かはいるはずだ。
つまり、仮に無回答だった人々の全員を完璧に追跡調査したとすれば、その8割が賛成などということは到底あり得ない、彼らの大多数は反対、ということだってあるかもしれない、だとしたら本当の賛成者は全体では半分以下かなぁ、というところまで考えてみる。
単細胞的な調査結果報告に振り回されることのないダイナミックな生活行動は、そういう深い思索によって培われるものだろう。
多少なりとも関心のあることならば、決して見出しのイメージだけを記憶に留めてはいけない、ということだ。
興味のないテーマならば、記事を丸ごと無視した方が無難である。単細胞どころか、何かを意図した集計発表だってあり得るのだから。
「A国人の3分の1が日本を信頼」――同じ日に載った別の記事である。外務省がその国の公的調査機関に
依頼して実施した世論調査の結果とのことだ。
記事を読むと、「日本に関心がある」と答えた人は48%。「信頼できる」が34%で、「信頼できない」の29%を上回った、となっていた。
正式の平和条約が結ばれていない国である。円滑とは言えない懸案交渉事項もある。
その国の人々からそれほどの関心と信頼が寄せられているとは、少々意外であり、こそばゆいような嬉しさも感じる。
どういう人に対してどんな調査をしたのかな、と思って読むと、さすが外務省と公的機関による調査だ。
記事の末尾にちゃんと書いてあった。「今回の調査は○○、××など5地域に住む18歳以上の男女3300人を面接調査した」
え、3千人? この国の人口はわが国よりも多いのだ。1億数千万人の内のその人数は少ない。
1%のはるか下、十万人のうちの3人未満でしかない。そんな僅かな人数を調べただけで「A国人(全体)の何パーセントが……」と言い切れるものなのだろうか、というくらいの疑念は抱くべきだろう。
その意味でこの調査報告は弱い。これは、調査におけるサンプル数の問題である。
次にそのサンプルはどのように選び出されたのか、ということがある。前記の調査報告にはあった「無作為」という語がこの記事には見当たらない。この表現は公正な調査報告には不可欠のものだ。
うっかり書き忘れたのか、本当は作為があったために書けなかったのか?
分かりやすい極端な例を言えば、日本との交流団体のメンバーと、日本に友達のいる人だけに聞いて回ったのだとしたら、結果の数字は全体の事実を表さない。
この調査がそれだったのだろうなどと、失礼なことを言うのではない。これは一般論である。
アンケート結果報告を見るときの心構えのための例え話だ。
「面接」による調査であることについても、考えを巡らせるべきだろう。
面接では、先に書いた「誘導」がいとも簡単に出来てしまうからだ。「18歳以上」というのだから20歳前後の若者も含まれているのだろう。そんな若者が、どうやって日本に関する情報を得ているのだろうか?
例えば、突然「警察がeメールを傍受することに賛成か?」と聞かれたら、「えっ、冗談じゃない、プライバシーが筒抜けになっちゃう」との思いを抱くのが普通の感覚だ。
「反対」と言いたい。ところがその質問の前に、最近はびこっているサ-カムとかコード・レッドとかいう悪質なウィルスの被害状況、それをガードするための警察の社会的役割などの説明があったとしたらどうか?
その上答の選択肢に「そういうケースでは仕方がない」、「こういう制限付きでなら賛成できる」などという文があったらどうする? ね、丸を付ける気になる人が出て来るだろう? そうやって「賛成者」を多く作る。
それをズドンと発表する。
これが誘導なのであり、意図的な報告を作るための常套手段であるとさえ言えるのだ。
ズバリ「社会調査のウソ」という本がある(文春新書)。著者は40代の少壮大学教授・谷岡一郎氏。
水野通信のような動物的直感による物言いとは違う。学者が書いたものだから学問的・科学的だ。
中に分かり易い例として、あるオバさんの、何と国会でのトンチンカン発言が書かれていた。
98年5月、当時審議中だったサッカーくじに関して、著者本人を含む6人の参考人が国会に召喚された。
中の一人、○×婦人会副会長がこう「宣言」したそうだ。
「私たちは渋谷で道行く314名の方々と対話し、一言ずつ書いて頂きました。
子供の犯罪が増えている中でスポーツ賭博とは考えられない、子供にギャンブルを煽るな、他にやることがあるじゃないか……等々、反対が77%、賛成は20%、……国民世論としてサッカーくじは認められておりません……」
駅前で「くじ反対」のたすきをかけたおばさん軍団に近寄って行くのは、同じような考えの人が多い、と見るのが当然だ。賛成者の多くは近寄らないだろうし、声をかけられたとしたら逃げ出すことだろう。
何とはなしに捕まってしまい、早く開放されたいために心ならずも「はい」と言ってしまった気の弱い人もいたかもしれない。強力な誘導と、調査対象者の作為的抽出による偏向、その結果が「反対大多数、国民は認めていない」だったのだ。
「国会の場はもう少し知的だと考えていたので驚いた」と谷岡教授は書いている。
この「宣言」は、その場の国会議員には殆ど無視されたらしい。だがその後、これとほぼ同じ論調の記事がいくつも書かれていたということだ。この程度の調査報告に記者が騙されたのか、それとも承知の上で悪用したのか――
とは、同教授による皮肉である。
■ 一日に2回ほほえみなさい 「2003年5月」 (最終回)
smile:(声を出さずに笑う)→ 微笑む、ニコリとする smile もlaugh(声をたてて笑う)も、精神医学、生理学的に見てとても良い、とされている。
・精神バランスの自動調整、ホルモン分泌、細胞活性化
・自分を快活にし、思考力・反射運動力を高める…… など早い話が、元気で活発で朗らかになる、ということのようだ。
それにつられて、周囲の人々も楽しげになるとすれば一層素晴らしい。
・米国のスタンダード・ナンバー“When you’re smiling”の歌詞の最後
……When you’re smiling,the whole world smiles with you.(君がほほ笑めば、世界中が一緒に
ニッコリするよ)この「世界中」には、君の周囲にいる家族、友人、隣人、ビジネス仲間などのすべて…… がもちろん含まれるだろう。
・米国のセールスマン基礎トレーニングのひとつに、「訪問先のビルに入る都度、他に 用はなくてもトイレに入り、鏡を見て最高の笑顔を作りなさい」というのがある。
仕事に向かうための装いとして、ネクタイをピシリと決めると共に見るからに明朗な雰囲気を身に付けるための方法だ、ということだ。
―― MIは20才代の頃に実践したことがある。効果はあったかって? そんなことを考えていないで、とにかくどんどんやることだ。理屈抜きにやってやる。そうやって未熟な自分を磨くのだ。世の中には、そういう非科学的な部分も存在するということを、知っておいた方がいいだろう。
人は誰でも、何も意識することなく毎日自然に笑っている。友人との楽しい会話で、邪気のない幼児の姿に接して、TVや映画を見て、あるいは依頼主や上司への愛想笑い、営業上の作り笑い、突然の思い出し笑い……などなど。
そうしたこととは別に、笑う理由が何も無いときに意識的に笑顔を作ろう、と言っているのだ。“2回”という回数に意味はなく、朝目覚めたときと夜眠る前、笑いかける相手も理由も無い状態の例として挙げたものに過ぎない。
つまり2回ではなくて3回でも5回でも10回でも、できるだけたくさん、ひとりで微笑もうよ、ということである。
ただし、人に気味悪く思われないように気を付けて。
困ったとき、悲しいとき、嫌なことがあったときなど、思わずしかめ面になってしまいそうなときにこそ、ここだ、とばかりに自分で自分にニコリとしてみせる。
あるいは眉間に縦ジワが出てしまった後にでも、「あーあ、しょうがないなぁ」という思いを込めて、シワを消して片頬でニヤッとしてやる。
そうやって自分を勇気付けるのだ、などと力むのではなく、逆に全身の力をスッと抜く。
すると気持ちが安らいで心の片隅がポッと温まり、なんとなく小さな幸せみたいな気分になれる。
そういうことが積み重ねられた延長上の将来、豊かに充ち足りた人生を自分で造り上げることができるんじゃないかな、という話だ。
業務範囲外のことで、個人として感じ、考えたことのうち、知らせたいと思うことがあったときに書いています。
