なぜ、彼は木に拘り続けるのか
一昨年、隈研吾氏が関わる建築の模型を見る機会があった。
場所は新宿。
木材と建築の魅力を発信する拠点、MOCTIONだ。
彼が館長を務めるその場所で、
横浜で開催される園芸博覧会に出展予定の建築物の模型が展示されていた。

それを見ながら、ふと思った。
隈研吾という人を、どう捉えればいいのだろうか。
彼は、いわゆる「挑戦者」という言葉では少し違う気がする。
むしろ、
木という素材を徹底的に追い続ける、表現者であり探求者。
私は、そう見ている。
木という素材は、私も専門家ではないが、
ある程度の加工や保護を施さなければ、やがて朽ちていくものだと思っている。
虫に食われ、風雨にさらされ、
自然の中で変化し続ける存在だ。
彼――隈研吾氏は、そんなことは百も承知だろう。
それでもなお、木という素材が持つ自然の良さを残そうとする。
あえて手を入れすぎず、その本来の表情を生かした建築に拘っているように見える。
では、どうなるか。
世間では、ちらほらと話題になり、
やがてそれは批判へと変わっていく。
いわゆる、“叩かれている”状態になるのだ。
なぜ、彼ほどのプロが、あえてそこに拘り続けるのだろうか。
それは、彼が誰よりも木という素材を知り尽くし、
その本来の良さを最も引き出す方法を、あえて選んでいるからではないだろうか。
私は、とあるテレビ番組で、彼が手がけたかやぶきの家の、
計画から完成に至るまでを見たことがある。

そこで思い知ったのは、
その家を何百年も住み続けるために、人々が重ねてきた創意工夫だった。
人々は、自分たちが住み続けるために、
その創意工夫を日々の生活の中に取り込み、
一見すると手間のかかることさえ、自然に受け入れている。
つまり、維持するということは、放置しないということなのだと思う。
私は、そう感じた。
今、世間で叩かれている内容も、
こうした手間暇をかけることが前提にあれば、
実は起きなかったのではないだろうか。
そう思う部分もある。
しかし現実問題として、
それを現代で実現することが難しいのも理解している。
もしかすると、私の考えそのものが、
根本的に違っているのかもしれない。
ただ――
昔の人々が、何百年も住み続けられる木造建築を残してきた。
それもまた、紛れもない事実である。
彼の譲らないこだわりは、
古来の建築物が持つ力を、あらためて示しているのではないだろうか。
だとすれば、問題は木そのものではない。
現代との融合の仕方にあるのではないか――
ふと、そんなことを思った。
木という素材を知り尽くしたプロフェッショナルである隈研吾氏の考えは、
おそらく正しいのだと思う。
ただ、現代との融合という点で、
どこか微妙に噛み合っていない――
そんな気がしている。
もちろん、これは私の勝手な持論に過ぎないのだが。
ちなみに私は隈研吾という人が生み出す建築物が大好きである。
