「結局、自分は描いている」(偶然か必然か——漫画から始まったものづくり)
ガキの頃から、よく絵を描いていた。
美術は、絵に関してはほとんど100点だった。
大学は機械工学部。
別にメカが好きだったわけじゃない。消去法だ。
当時はドラフターで図面を引いていたが、今CADにアレルギーがないのは、あの頃の延長なのだと思う。
大学に入り、改めて漫画を読み始めた。
ジャンプの手塚賞・赤塚賞の記事。
山止たつひこが50万円を獲得したというのを見て思った。
「このレベルで50万円ももらえるのか?やっしゃー、一丁やったるか」
単純だった。
辻堂の画材屋で道具を揃え、漫画を描き始めた。
だがすぐに現実にぶつかる。
鉛筆では描ける。
だがペンになると、途端に描けない。
そこで古本屋で「漫画の描き方」を買い、ひたすら描いた。
継続は力なり。やがてペン入れもできるようになった。
そして私は、ジャンプ編集部に電話し、持ち込みをした。
結果は——鼻で笑われるレベル。
だがその場で見た連載作家の生原稿に衝撃を受けた。
「こ、こいつ、ただもんじゃない」
そこで初めて、本物を知った。
それでも私は言った。
「また来ます」

——今思えば、あの一言がすべての始まりだったのかもしれない。
その後、講談社の編集者に見てもらい、
「あと一歩」「佳作は取れる」と言われ、
生活が厳しければ援助するとまで言ってもらった。
道は、あった。
だが同時に、缶詰めで連載に追われる作家たちの現実も見た。
そのとき思った。
「これは一生の仕事にはできない」
逃げたのではない。
自分で降りたのだ。
私は、いわゆる“いう事を聞かない人種”だ。
前の社長にもそう言われた。性分だ。
その後はプログラマーとして働き、生活は安定した。
だがある日、一人暮らしで高熱を出して寝込んだとき、ふと思った。
「このまま死んだら、何も残さないまま終わるのか?」
その瞬間、なぜか起き上がり、
やったことのない“原作”を書き始めた。
そしてその原稿をサンデー編集部に送った。
拾ってくれたのが、三上信一さんだった。
私は漫画家ではなく、原作者としてデビューした。
その後、ジャンプや少年コミック誌にも掲載された。
振り返れば、多くの人にお世話になった。
三上信一さん、鈴木晴彦さん、
マガジンの吉沢さん、少年コミックの坂本編集長。
坂本編集長には、屋根裏部屋に“監禁”されたこともある(もちろんいい意味で)。
あの頃は必死だったが、今思えばすべてが糧だ。
最終的に私は漫画の世界から足を洗った。
ゴーストライターを続ける中で、自分なりの限界を感じたからだ。
だが——
今回、改めてこの話を書いたのは、
鳥嶋和彦 さんのYouTubeがきっかけだ。
懐かしく、そして今なお現役で走り続ける姿に刺激を受けた。
だから思った。今、書いておこうと。
漫画の世界からは離れた。
だが、あの頃に叩き込まれたものは消えていない。
世界は違う。
だがやっていることは同じだ。
私はいまも、“ものづくり”に向き合っている。
結局——
自分はずっと、描いている。
